舞台監督にインタビュー

クリエイト大阪創立メンバー 大塚照信にインタビュー

クリエイト大阪創立メンバーにインタビュー第4

 学生時代、大道具のアルバイトがきっかけで「いずみたく」さんの会社へ、ヨットの管理から「いずみたくシンガーズ」のマネージャー、そしてクリエイト大阪へ、当時の話と舞台監督の持論を語って頂きました。

 

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                               金一浩司 

                               岡野克己 

取材・構成 五十嵐洋之(ビレッジプレス) 

 

 

金一 出身は足立区の梅島で、何人兄弟だっけ?

大塚 二人兄妹、妹がいます。うちの家は変わっていて、家が三軒くっついていたんですね。

金一 三軒長屋ってこと?

大塚 真ん中が母屋で、片側に二階建ての家があって、もう片側が鞄工場。

そっちも二階建てで、住み込みで働いている人がたくさんいた。お袋と妹は二階建ての家に住んでいて、ぼくはおばさん夫婦と真ん中の平屋に生まれたときから中学校頃迄ずっと住んでいた。

だから、お父さんとお母さんが二人いるような感じ、物心ついてから中学校くらいまではお袋とは一緒ではなかった。

金一 親戚とかが近くにいて、という感じだったんだね。大塚さんは何年生まれだっけ?

大塚 昭和24年、1949年。430日生まれ。

金一 ということは玉虫さんとかとほとんど一緒、70年安保世代か。日大の演劇舞台美術専攻だよね。高校時代は何をしていたの?

大塚 サッカー部には入っていないけど、サッカーばっかりやってました。

進学のために勉強しないといけないから、ゼミに行ったりとかしていたんだけど、朝早く学校に行ってサッカーしていた。

昼休みもやったし、放課後も少しやった。その頃みんなサッカーが好きだった。

金一 その当時、サッカー少年って少ないんじゃない?

大塚 数は少なかったけど、どこかのクラブの練習に行ったこともあった。

金一 そんなにサッカーばっかりしていたのに、日大の演劇舞台美術を選んだのはどうして?

大塚 サラリーマンしたくなかったから(笑)。それだけ。

金一 演劇をしていたとか、何かを観て影響を受けたとか、そういうことはないんだ。

大塚 サラリーマンはイヤだったから、何かを作るとか考えるとか、そういう方がいいなと思った。

金一 具体的な動機はなかったのか。

大塚 そうですね。学校はほとんど行ってなかったんだけど、歌舞伎が好きな友人がいて歌舞伎も見にいきましたね。

   それと報知新聞がやっているある会があって・・会というのかな、もう一人の友人がその会に出ていたので、それもよく見に行っていました。

   大学の時に大道具のアルバイトでNHKに行きましたよ。まだ内幸町にもNHKがあった頃で、ホープ軒のおやじが今の様に大きくなる前、NHKの前まで荷車引いて店を出していた。

金一 当時はNHK本体の舞台美術そのものだよね。下請けなんてなかったでしょう。

大塚 美術センターがあって、ぼくはそこのアルバイト。

金一 美術センターから直のアルバイト?

大塚 そうです。その頃は家にはほとんど帰ってなくて、NHKで寝泊まりして、徹夜仕事もしてた。

   徹夜の方がお金がいいから。NHKから学校に行って、終わるとまたNHKに戻って徹夜仕事して、という感じ。

金一 学校には何しに行っていたの?

大塚 そりゃあ勉強ですよ(笑)。

金一 行ってたのか。

大塚 どうしても出ないといけない授業だけは出て、あとは頭のいい友人に教わって。その時代はNHKに斉藤さん、ポコさんと呼んでいたけど、その人がいずみたくさんのヨットに乗っていたんですよ。

   いずみたくさんのヨットは佐島マリーナが係留地で、もともとは森繁泉さんという森繁久弥さんの長男?がそのハーバーをまとめてやっていて、そこに通うようになった。

   葉山でも練習をして、週末になると乗りに行っていたんです。

金一 ヨットが好きだったわけではないんでしょう。

大塚 船は好きだったんだけど、ヨットはそこで始めて教えてもらった。

金一 操船技術を教えてもらったんだ。

大塚 あんまり難しいものでもないんです。いずみさんの大きいクルーザーで教わりました。

金一 何級船舶とか免許を持っているんだ。

大塚 いや、いらないんですよ。免許を持っている人が一人いれば、あとは誰が操船してもいいんです。

金一 見よう見まねの無免許運転みたいなものだ。

大塚 そうです。しかも当時はまだそういった運転免許もいらない時代だったんです。

   小網代のシーボニアで遊んでいた人がスクリューに巻き込まれて死んでしまって、それ以降やっぱり免許が必要だということになったような気がします。

金一 学生運動やっていたっていっても、そんなことしていたらたいしてできないでしょう。

大塚 井出ちゃんみたいな過激ではないですが、日大に泊まり込みしたり、明治や東大に行ってデモやったり。でも、井出ちゃんみたいに捕まってはいない(笑)。

金一 なんとなくクラブ活動気分というか仲間意識というか、そういうものはたしかにあったからね。

大塚 その程度です。

金一 内ゲバとかはなかったの?

大塚 僕の時は一回くらいしかなかったと思う。

金一 60年時代は授業が始まるという瞬間に、いろんな活動家が教室に入ってきて、教師が来る前に壇上へ上がってアジ演説をやるんだよ。

   それで「これから全体でデモに行くから、授業は中止」とかアジテーションをしていた。中にはそのことに対して歯向かうやつもいたんだけど、あの調子で押しまくってたね。

   授業という授業は始めようとすると必ずそういう妨害が入った。それが通例になっていたから、様子がちょっと違うのかもしれないね。

岡野 日大芸術の演劇の人たちは思想的にはどんな感じだったんですか?

金一 かなり先鋭的な人もいたんだろうね。

大塚 過激だった人もいましたね。ぼくはそこまでにはならなかった。

金一 この世界に入るきっかけは、やっぱりその道具のアルバイトなんだね。

大塚 そうですね。そのさっきのNHK美術センターの斉藤さんと一緒にたくさんのヨットに乗って、そこでいずみたくさんと知り合った。いずみたくさんからある時に会社に来ないかと誘われたんです。

   「卒業したらどうするんだ?」、「サラリーマンにはなりたくないなと思っているんです」と言ったら「それなら、うちにおいで」と。

金一 あの時代はみんなそうだよね。ネクタイ締めてなんてイヤだってみんな思っていたよね。そういう反発はあったよな。

大塚 あとは、いろんなことをやりながら「何が自分のこれからの仕事かなあ」と考えていましたね。

   大道具をやったときもおもしろかったから、その延長線の舞台というものもいいのかな、とか。

    それで、いずみたくさんのところに入ったんですけど、オールスタッフにはもともとピンキーとキラーズ、青い三角定規、朱里エイコさん、タイムファイ ブ、由紀さおりさんもいたんだけど、僕が入ったのは新しく作った会社が「イズミエンタープライズ」という会社で、オールスタッフの中では異端視されてい た。

   その部門ではヨットの管理もするし、ヨットの先輩が三崎に住んでいたので、海に関する企画、水上スキー教室だったりクルーザーを貸して何かをやろうという企画も考え制作しました。

金一 それはいずみさんのクルーザーを貸していたの?

大塚 そう、操船する人をつけて。

金一 時代としては先走り過ぎた感じだよね。

大塚 そうですね。オールスタッフにいずみたくさんのタレントがいたのに、イズミエンタープライズが一組だけ作ったグループが、「いずみたくシンガーズ」。

   それでぼくが彼らのマネージャー、運転手とかをしていた。2トン車を運転して雪の中を但馬労音まで行ったりした。 

金 一 シンガーズはエンタープライズ所属だったんだ。ヤマハの世界歌謡祭の第二回かな、それにマイクカーブ・コングリゲーションというグループがゲストで来 て、それが歌って踊れてハーモニーもちゃんとできて楽器も使えるというようなエンターテインメントに満ちたグループで、それをいずみさんが見て、シンガー ズを作ったんだよね。

大塚 NHKの101のトミーと石岡君たち(?)が居て、ドラムが現在、猪俣さんの事務所の田中君・・・。そのときにクリエイトから誰が来ていたんだろう?

金一 谷口だよ。どちらかというと、あいつの原点みたいなもの。作るところからやっていたから、メンバーとも親しいというか、ずっと交流が続いていた人もいたんだと思う。

大塚 そのドラムの彼とはずっとつきあいが続いていた。

金一 でも、そっちの水上スキーとかの仕事はどうにもならなかったんでしょう?

大塚 なりませんよ。どちらかというと、いずみたくさんの道楽的発想だから。一番遠いのは合歓の郷まで行ったりした。出張手当もついて、なかなかよかった(笑)。

金一 合歓の郷は当時ヤマハがいろんなところにリゾートを作っていくものの一号かな、コテージがあってね。

   それからつま恋を作り、諏訪瀬島にも作ったんだけど、これが行きづらいところで、鹿児島から飛行機に乗って、どこかの島から船に乗ってというところでね。

   それと小浜のはいむるぶしとかいろいろやったり、ボーリング場がもう下火になっていて、その跡地を買って事務所にしたり音楽教室にしたり、そういう動きをしていた時代だよね。

岡野 渋谷のエピキュラスもそうでしたよね。目黒の財団もボーリング場でしたね。あと日吉にある音楽教室もそうだった。

金一 そうだね。大阪のヤマハセンターもボーリング場だった。

岡野 そこに目をつけたっていうのはすごいですよね。

金一 そうだね、安く買い叩いてやっていたんだからね。

大塚 ヤマハに行ったときに、なんて大きなフロアーで柱がないのかなって思った。

金一 そのヤマハの財団と川上源一さんが音楽展開をやろうとしたときに音楽家の一人としていずみさんが相談を受けていて、それが世界歌謡祭とか広島音楽祭とかいったものにつながっていったんだと思う。

   大塚さんがよくつきあっていた松原さんもオールスタッフなんだよね。

大塚 所属はしていなくてフリーで仕事をしていたそうです。

   三河台ハイツにオールスタッフがあつた時代ですね。そのあとに材木町にビルが移転してから僕は参加しました。松原さんのいた時代は三木鶏郎さんとかのCMの仕事が繁栄していた時代です。

   その中で松原さんは一匹狼でどこの会社に所属したことがなかった。

金一 三河台ハイツというのはセリナ瀬里奈のもう少し溜池よりにあって、オールスタッフは同じ棟に何室か部屋があってやっていた。そのあとの材木町のときに入ったんだね。

    オールスタッフというのはその名前の通り、スタッフの総合集団みたいなものを考えたんだと思う。今井さんも所属はしていないけど関連スタッフとしていた。

大塚 世界歌謡祭も照明は今井先生でしたよね。

金一 第一回、二回は照明、今井直次さん。美術は金森馨さん。

いずみたくさんと同じように服部克久さんも財団とは非常に親しくて、トータルなことの相談、政治的なことというか、そういうことはみんなわりと服部先生にしていた。

藤田敏雄さんも二年間総合演出だったね。だから最初はオールスタッフのメンバー中心でやっていたわけだ。ただし、美術は金森さん。オールスタッフの中には専属の美術家は基本的にいなかったんだよね。

子どもミュージカルの仕事などで浅利慶太さんといずみさんは近しかったから、それで金森さんが美術で入った。

そのメンツで二年やったんだけど、そろそろ演出家を変えたいという話もあって、三年目は佐藤信さんになった。そのときの司会が宍戸錠さん。

演出家はそれまでと違うものをやりたいと考えるからそういう形でやったんだけど、催しの性格上合わないということで、佐藤さんは一年で辞めて、その次の年は 片岡直彦さん、どちらかというとイエスマンの演出家に変わって、そのあたりから照明が沢田さんになって、金森・沢田のコンビになった。

金森さんが亡くなられたあとは三宅さんという流れだよね。

大塚 世界歌謡祭は一回、助っ人で行ったくらいで、あとはあまり記憶にない。

金一 意外と大塚さんはローテーションの中で空いているところにまわっている感じだったからね。

大塚 坂本九さんとジュディ・オングさんが司会のときに一番憶えているのは、島田さんが二人の司会者の世話役をやっていたから、運転手のバイトを頼まれて吉永小百合さんの家まで迎えに行って事務所に行って、日活まで送っていったことがあった。すごい緊張した(笑)。

   その頃にクリエイトにも来たんだけど、セーラー服を着たぶさいくな女の子を紹介された、その子が大竹しのぶさんだった(笑)。そのときにはもう『青春の門』に出ていたんだ。

金一 まだ赤ら顔で幼い感じだったよね。油壺で泳ぎを教えたことがあるよ、泳げないっていうから。

大塚 いずみたくさんがヨットに乗っているときの思い出というと、小網代のシーボニアにマッケンジーというアメリカの偉い軍人の持ち物だったかまぼこ型の別荘を買い取って、そこにはヨットをそのまま付けられるんですよ。

   娘さんの名前を取った「エリ」という14フィートのモーターボートを置いて、行ったり来たりしていた。

   建物は海岸線沿いに建っていて、木製のテラスがあるんだけど、その先にヨットを付けられるんですね。そのヨットはケッチという二本のマストがあって、シャワールームが二つ、オーナーズルームは和室で、すごい船でした。

金一 話していいのか分からないけど、水上スキーとかヨットとかはたぶん、いずみさんの道楽を会社としてやることによって経費として成り立たせる戦略だったと思うね。

金一 お酒はすごかったよね。よく遊び、よく飲み、よく仕事をし、だね。

大塚 いずみたくさんはメロディがいいですよね。CMソングもよく作っていたし、いい歌がたくさんありますよね。岸洋子さんの「希望」とか「夜明けのうた」など、これからもずっと歌われ続ければいいと思う。

金一 永六輔さんの名曲というと、中村八大さんといずみたくさんとのコンビのいずれかだよね。

大塚 にほんのうたのシリーズもある。「京都大原三千院〜」(「女ひとり」)とか「筑波山麓合唱団」とかね。その頃に知り合ったのがマネージャーの小宮さん。いつも同じ三つ揃いのスーツを着ていてね。

金一 小宮さんはオールスタッフのマネージャーさんだよね。

大塚 そうですね。マネージメントから、いろんなことをやっていた。ヨットにも乗っていて先輩、東京でもよく一緒に飲むと小宮さんのところに泊めてもらっていた。

   奥さんがキューティーキューのメンバーでね。その後、小宮さんはいずみたくさんの会社を辞めて、坂本九さんのマネージャーになって、日航機の事故で一緒に亡くなってしまった。

金一 大阪の仕事があって、本来は専属マネージャーが一緒について行くはずだったんだけど、何かの事情で行けなくなって小宮さんが代わりに行ったみたいね。小宮さんとは親しかったんだ。 

金一 うちでの最初の仕事というのは?

大塚 最初に全国ツアーに行ったのは由紀さおりさんなんです。

金一 演出は誰だった?

大塚 憶えてないなあ。そのとき「よかったなあ」と思ったのは、ギターが中牟礼さん、ピアノが小川さん、ドラムが石松さんかな、サックスが原田さん。

金一 カッチリした、いいメンバーだね。演出は藤田さんかなあ。

大塚 照明は田中さん。そこで修ちゃんに、女性にゴマするんじゃないんだけど、毎日終わると「今日はどうでしたよ、」とか感想を言いに行くことを教わった(笑)。

金一 由紀さんの最初の全国ツアーはタイムファイブと一緒だった。それは修がやった。クリエイトの中で、あの当時から一番お酒が好きだったのは大塚さんだよね。

大塚 そうですね。修ちゃんは飲めないし、玉虫も飲まないし、井出さんも余り飲まないね。あと、一緒に飲んだことないけど、えんぞうとか安藤さんとかは飲みそうだったね。

金一 プレイガイドジャーナルの舞台部みたいなもので仕事をする中にいた人たちだね。

   安藤さんは照明が専門という感じだった。朱里エイコさんのツアーにも行っていて、前も話したトンズラしたときに電話してきたんだよ。

大塚 大阪にもよく行きました。有文社だっけ、松田さん?

金一 単行本の部門を有文社という名前でやっていたんだ。松田は何代目かの由紀さんの旅回りのツアーをまわっていたね、人がいないっていうから。

大塚 プレイガイドジャーナルの第一回のバークレーのツアーをやったんですよね。ぼくはいずみたくさんのところを二年くらいで辞めて、ちょっと何もしない時期があったんです。

   そうしたら、修ちゃんから電話がきたのかな、ツアーがあるからって。それで一回目に参加したんだよね。

金一 それは自費で行ったの?

大塚 そうですよ。一ヶ月くらいトラックの運転手してお金を稼いで。向こうではグレイハウンドのチケットを買って、ニューヨークまで行った。そのときに玉虫と一緒だった。

金一 クリエイトのメンバーから、誰でもいいから一人行けることになっていて、第一回目が玉虫だったんだ。

大塚 あ、僕もタダだったかな? 小遣いだけ持っていったのかもしれない。オフ・ブロードウェイを観に行くのは僕と玉虫しかいなかったんですよ。

   玉虫は金持ってるから飛行機で行ったんだけど、僕は持ってないからバスで行った(笑)。

   それで向こうで会って一緒に泊まって、ミュージカルを何本か観た。玉虫は以前から知っていたけど、ゆっくり話すのは初めてだった。

    ニューヨークで別れて、ぼくはミルウォーキーからカナダへ行って、いずみたくさんのヨットに乗っていた土佐くんというのがいて、彼が大学を出てからミ シガン湖でヨットやっているというから行ったんだけどいなく、バンクーバーにいるっていう話なのでそこまで行きました。

   途中にカルガリーとかをまわって、バークレーに帰ってきた。

金一 一ヶ月の間でそれだけまわってきたんだ。じゃあ、キャンパスにはほとんどいなかったんだ。

大塚 前半と後半にちょこっと。でも、オフ・ブロードウェイにいたのは五日間くらいだったと思う。

金一 グレイハウンド・バスって何日くらい走るの?

大塚 どのくらいだったかなあ。お金を節約する時はバスに夕方に乗って翌朝に着いた街でとりあえず降りて宿泊代を浮かす、それからまたバスに乗ったりしていた。そうやってミシガン湖とか寄り道していた。 

金一 その頃の玉虫は紙風船という事務所だったんだよね。

大塚 そうだったんだと思います。ぼくもまだクリエイトに入っていなかった。日本に帰ってきて、僕はパルコに行ったんです。

金一 何をやっていたのか憶えてる?

大塚 なにか便器を使ったのをやっていませんでした?

金一 それはパルコじゃない。元の郵便貯金ホールの「マガジン・オンステージ」という舞台で、石岡瑛子さんのセットだった。前田美波里さんとか上條恒彦さんが出ていて、オールスタッフではなくて矢崎泰久さんの制作だった。

大塚 どうだったか思い出せないけど、印象として修ちゃんに話をしたときはパルコで仕事をしていた。

   ともかく、修ちゃんに「帰ってきたよ」って言いに行って「これからどうするんだ?」「いや、まだ何も決めてないけど」と言ったら「金一さんに会いに行ったら」と言われたので、金一さんのところに行ったんです。

金一 一回目の社員旅行でバリに行ったじゃない。あのときは新婚旅行だったよね。

大塚 いや、まだですよ。「結婚してないけどいいですか?」って訊いたら「いいよ」って。

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バリ旅行

 

金一 そうか、それで帰ってきて六本木で披露宴したのか。

大塚 ロアビルの裏だったかの「るーてん」でやったんです。呼んだのはユーミンだけだったんだけど、チェリッシュの二人も来てくれて、いつかお礼しなくちゃと思っていて、この間別のイベントで二人に会ったので「結婚式のときはありがとうございました」ってお礼言いました。

   向こうは忘れていたけど。「るーてん」ができたときで、金がないからどうしようかと思ったんだけど、うちの親父はカバン屋だから、小銭入れを作ってくれて、それを引き出物で出したんですよね。 

金一 パルコの汀夏子さんの「回転木馬」はやったよね?

大塚 あれはやりました。

金一 一緒にやっていて、何かで大塚が抜けることがあって、代わりの人間が大塚の台本を開いたんだけど、字が汚いからきっかけが分からない(笑)。ぐちゃぐちゃの台本で、細かいことが書いてあるんだけど読めないんだよ。

 

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クリエイト大阪のボーリング大会

 

大塚 気になったこととか余計なことを一杯書いてあるしね。

金一 クリエイト通信も大塚さんが役員のときに作ってくれたんだけど、当時はグルメ通信みたいなものを載せていたよね。どこのなにが美味いとか。

大塚 付録みたいなものでね。メインで書こうと思ったのは、当時は「舞台監督ってなんなの?」って、家族や身近な人でも分かっていなかったから、自分たちはこんなことをしているってこと。

   あと、ツアーとかでみんなが離れていると横の連絡もないからどうしているのか分からない。

   こどもの学級新聞みたいな発想で、そういう情報を入れながら、ぼくたちはこういうことをやっているんだということを家族や近い人に見せられれば舞台監督や会社のことが理解できるかなと思って始めたんですね。

   あの頃は飯食うのも大変だったじゃないですか。やっぱりユーミンが好きだったから、でもユーミンのためのスケジュールをあけておくためには二ヶ月飯が食えないときがあったりとか。

   音響の松木さんはクリエイトに関して「なんで組合作らないんだ」とか「会社組織にしないのか」とかよくアドバイスをしてくれた。

    自分たちは金一さんとこういう形でやっているんだと説明しているときに、ふと思い出して、二ヶ月食えないときにたった五万でもあると贅沢はしないけど 飯を食って継続できるかなというところがあったので、なんとかそういう形をとれないかなと考えたのが、玉虫が紙風船の時代に尾崎紀世彦さんと一緒にやったとき、尾崎さんの仕事がなくても専属だから、あったときは優先的にほかの仕事はキャンセルするんだけど、そのために五万円の最低契約料みたいなものをも らっていたのね。

   これがクリエイトにあると若い子でも多少はやっていけるだろうと思って、一ヶ月五万円というものを提案したんです。ちょっとやりましたよね。

金 一 ちょっと混乱していると思うんだけど、話としてはそうだったと思う。もともとはそういうものはまったくなくて、当時議論していたのは家賃程度はなんと か補助できるようなものを固定給として決めようと、最初は三万だったかな。それが五万になった。大塚さんの思いとそういう経緯がクロスしていると思う。

岡野 最初はまったくなくて、逆にお金出してって言われたとか聞きますよね。

金一 それはコピーが出始めていて、誰が何枚コピーを取ったかとことをノートに書いていたんだけど、必ず書かないやつとか数を間違えるやつがいるんだよ。

   まだコピー一枚が高かったからね。それと、外国への電話。それらを使った分を徴収していた。大塚さんが入った頃は台本はガリ版で図面は青焼きだったよね。

   金森さんの「死神」の美術プランなんかは感光紙だったね。通信はいまの役員会報告の元みたいなものだよね。携帯電話もなかったから伝言板を置いてたな。そんな時代だったんだ。

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昭和52年当時のギャラ

 

金一 印象に残る歌手というと誰になるの?

大塚 ずっとお会いしていないけど、由紀さおりさんです。いまでも忘れないのは、TBSの下の「石榴」に汚い格好をしたぼくと修ちゃんを招待してくれて、生まれて初めてしゃぶしゃぶをご馳走していただいたんです。

   その上お小遣いまでくれて。修ちゃんなんてすごい汚かったんだから、頭洗ってなくて髪の毛ぼさぼさで、僕はもうちょっとましだったと思うけど? 

   修ちゃんは結婚式のときに前田憲男(?)さんから洗顔器もらってた、そのくらい汚かった(笑)。そんな二人を招待してくれてね。

金一 石榴はまだあるよね。

金一 フェイス001は当時、劇場などでいろいろなイベントを企画して儲けようということで会社を作ったわけだよね。

大塚 日本賞の制作をやりましたね。ただ、制作は簡単なものではないし、続けることは本当に難しいですよね。

金一 おれが大塚さんをはじめみんなに言っていたのは、組織ってものは変化するし、生あるものは必ず死んでいくわけで、それは組織も一緒で、いろんな夢や方向を持っている人間は、どんどん自分のやりたい方向を探っていかないといけない。

    そのことを逆に言うと「自分たちで違う会社を作った方がいい」というように誤解されているけど、実はそういうことではないんだけどね。

大塚 そのときに誤解していたのは僕だと思いますよ(笑)。谷口は金一二世でずっとやっていくと思ったけど、自分は「最後までずっと舞台監督でいいな」と思っていた。

   ただ、あの時代には修ちゃんや井出も会社を作ったりして、みんなが動き出している中で、金一さんに会うと「おまえ、どこか行くところ決まったのか?」っていつも言われていて、何か作らないといけないんじゃないかって思ってしまった。

   「自分はずっとここにいてはいけないのか」とかいろんなことを考えたけど、自分に何ができるのか分からないし、そんなときにフェイスの方から声がかかったから、そこへ行けばそういう形ができるのかなって思った。修ちゃんに相談したんですよ。

   そうしたら「金一さんがそう言うってことは、絶対に何か考えているんだから。

   一度みんなをそういう形にして、そのあともう一度ワンフロアにみんなを集めて、そこから新しいことをやろうと考えているんだよ」と言う話を聞き、そうかと思って行くことにしたんです。

金一 フェイスは何年くらいもったんだっけ?

大塚 二年くらいじゃないですか。代表になった大橋が辞めちゃったんだから。

金一 それは結局、スポンサーとしてついてくれると言っていた人がついてくれなくて、お金が出ていくばっかりでどうにもならなくなったわけでしょう。

大塚 フェイスを辞めて、自分の会社を作っても制作的な能力もないだろうしね。

   そのころ時空工房って会社があった。そこで一緒にやらないかという話もあった、だが制作やっていても飯を食っていける保証もないし、やっぱり舞台監督もやりながら、ということじゃないとつながっていかないだろうと思ったんです。

   舞台監督を離れてほかの会社を作となると、クリエイトの中で育ったのにクリエイトの敵になってしまうとも思いました。

   だから、金一さんのところに行って「そういうことだからクリエイトを辞めます」と言ったんだけど、金一さんは「他に会社を作って舞台監督をやっているのはほかにもいるから、おまえがクリエイトを嫌いじゃないならいいよ」と言ってくれたんです。

   それでぼくはクリエイトの籍を抜かないことにしたんです。あるとき谷口が横浜のホールに来て、二足のわらじだからもう辞めてくれって言われたんです。

   でも、修ちゃんに相談したら「おれはクリエイトが好きで、ずっと初期から作ってきたから、クリエイトが首にするなら辞めるけど、首にされない限りはずっと残る」と言ったんです。僕もまったく同じ意見だった。

金一 谷口がそんな話をしに行ったんだ。

大塚 はい。

金一 それはジブを作ってどのくらいのとき?

大塚 そんなに経っていないと思いますよ、一年とか二年とか。金一さんが一人でやってきて、金一さんもこれから歳を取っていくし、次の社長になったら新しい組織に変わっていくようなときでしたね。

   次の社長が一人でやっても金一さんの替わりはできないんだから、補佐する副社長みたいなものを作れって谷口に言ったんです。

   そういう会社形態で金一さんと同じくらいのレベルになるかもしれないし、そういう形で今後のクリエイトをやっていった方がいいよと。

    だから、ずっと井出が頑張って二足のわらじ論って、僕は何も言わなかったけど、今日はじめて言うんだけど、別に二足のわらじでいいだろうと思うし、逆 にそういう形でやった方がもっといろんな形で、僕が表からクリエイトをフォローできるだろうし、もっと広がるんだと思ったんです。

   いまでもそうなればいいと思っている。僕から進んで二足のわらじを履いた訳ではないと思っています。でも今は色々な経験が出来たのでとても感謝しています。

金一 誤解されていることの一つは、当時から多角化ということはよく言われたけど、ぼくが常に言っていたのは、必ず照明とか音響とか道具とか、いろんな制作会社とか、そういうものを抱えると、合わなくてもそれを使わないといけない。

   あるいはその組織が腐ってくるとか、照明会社だけがこけるとか、そういうことがあると、本体そのものがそのために犠牲にならなくてはいけない。

   だから、そういうことはやめる、舞台監督一本でやる。ただ、ほかにそういうことで興味のある人は別に作ってやる。それは全然構わない。

   おれはそう思っていたし、そのことをみんなに説いているわけで、「自分たちの組織が存続するために無理矢理がんばるということはやめた方がいいよ」ということはそういうことであって、特に矛盾したことを言っているわけじゃない。

   組織は生き物だから、当然生きている以上存続していく方向を探っていかないといけないのはその通りで、反面、組織が無理矢理がんばろうとすると個人をぐちゃぐちゃにしてしまうこともあるので、その矛盾した片側だけが強調されてしまうこともあって難しいと思う。

   たとえば、大塚がクリエイト通信をさっきのような思いで作ったとしても、受け取る側はたいして読みはしないよね。ヘンな言い方だけど、作り手の一所懸命さとは逆に、受け手側にそれほどの問題意識がないと、単なる汚い紙にすぎないということになってしまう。

   汚いって、手書きの汚い字ってことね。そういうことって必ずあるわけだよね。われわれも無関係のことには無関心であるし、無知であったりするし、そういうことは往々にしてある。

岡野 いまだにそういう温度差はありますよね。

大 塚 サラリーマン的になっちゃうとね。僕がクリエイトに入った頃は人数こんなにいなかったけど、やっぱり自分が仕事をしながらクリエイトのために何ができ るか、ここにいるんだからそういうことを大事にしながら仕事をしていくことが大切なんだと思う。それが存続していくってことだと思うね。 

金一 玉虫は演出志向だと思っていたけどそうではなかった。大塚さんが演出志向が強いってことだよね。

大塚 演出をやらないと舞台監督ができないというように自分は考えている。素晴らしい舞台監督をやるためには自分が演出家にならないと。

   舞台をやるときには最初から最後まで詳細に分かるわけでしょう。

    これからは舞台だけで育った演出家だけではなくて、舞台の事がわからない違うジャンルの人たち、舞台に関しては素人だけどこれまでの演出家よりも光っ たものがある場合、舞台監督にそういう人がいてくれたら、演出家のフォローをして素晴らしい舞台を作ってくれると思うから、若いクリエイトのメンバーには 時間があるなら沢山のステージを見たり本を読んで勉強してほしい。

   年取ってから舞台監督ができなくなって、違う方向にいくようになっても勉強した事が沢山の引き出しになって役立つはずだから。

   そんな事をやりながら、明かりも好きになって、美術もやるようになって、照明はいまは一番好きですね。

金一 それは一面とても正しいと思う。だけど、その反面というものは必ずあって、じゃあなぜ大塚さんは演出家にならないの、ということがあるわけでしょう。

   必ず演出家がいて舞台監督がいるっていうけど、感性が違うよね。どんなことをやっていても絶対に違うことって出てくるでしょう。

   舞台監督はそれを飲み込まないとダメなわけだよね。絶対にそれを超えてはならない。それをいかに具現化するか。

   おれは舞台監督というのは基本的に、大塚さんの言うようなクリエイティブな側面とマネージメントの側面があると思うんだよ。

   そうすると、これをやったら予算オーバーになるとか、日程が間に合わないとか、そういうマネージメントの側面が分かってしまうじゃない。そうすると、やりたいことができない。

岡野 ただ、演出面を勉強しておくと、これは時間がないからダメだとか、お金がないからダメだとか、とかいうものに対する代案はいくつか出せますよね。

金一 そうだね。おれの言いたいのは、物事一面だけではなく、大塚さんの言う側面とその反面、それが必ずあるということだけなんだよ。

大塚 松原さんも金一さんと同じようなことを言っていた。僕がやるときには、やっぱり時間とお金と枠を考えてしまう。分かってしまうから。

   松原さんは演出家というのはそういう枠を考えないでやりたい事を言うといっていました。

    演出家にもある程度の枠が理解でき、そこからちょっと飛び出すものは制作と相談しながらやるわけで、あまりに突飛なものだと、松原さんもそうだったけど、もう少しそのあたりを分かりつつ自分のやりたい事、何ができるか、ぼくと松原さんがやったときは、僕があまりにもそこを強調しすぎて「これは無理ですよ」となる。
松原さんの方は「無理はない」と好きなことを言ってくる。

とても楽しい仕事をやらせてもらいました。

また、演出の勉強にもなりました。違う世界の人が演出家になる、たとえば写真家が演出家になる、生け花をやっている人が演出家になるというように、舞台監督がそういう人の才能を舞台に生かしてあげる、もう一人の演出家になってフォローする事もあっていいんじゃないかと思う。

金一 その両面の比重をそれぞれどう考えるかということもあるね。

大塚 ぼくがクリエイトの中で金一さんの下にずっといたら、演出家に絶対に文句は言わず徹底して舞台監督をやっていたと思うんだけど。

金一 おれは自分が絶対に演出家はできないと思うのは、どうしても自分で蓋をする癖がついているから、突飛なことは言わない。中島みゆきさんの制作費がかかるって話だけど、やっぱりやりたいことをわがまま放題言うってことも、この世の中では大事なんだよ。

   それを突っぱねる力、ないしは支えるものを持っているとやっぱりいいものができるわけだよね。

   だから、舞台監督の中にも何種類かやり方があって、大塚さんは舞台監督・制作だけれどもクリエイティブな側面もやりたいという志向が強いんだろうね。

大塚 松原さんと出会って、神野美伽さんと一緒にやりながら演出の勉強させてもらいました。

   一部、二部の作り方というほかの人のやっていない独特の方法、一部で挑戦するのか二部の頭で挑戦して最後をまとめるのか、そういうことを大変うまく演出していました。

   ただ、チョット違うなと思ったのは一つの構成の中に起承転結があったときに、テレビ関係の作り方のようで、いつも明るい歌があると次は暗い歌、この繰り返しが多かった様です。

   僕は全体の中でなだらかな線を作りながら、最後にその日来てくれたお客さんに一番大事なことを言わないといけない。

   コンサートが終わったときにお客さんが扉を開いてロビーに行くときに一言何を言うか、それを歌い手と演出家は伝えないといけない。

   だから、まず最後に何を伝えたいのかということがあって、そこから二部の本編の最後、二部の頭、休憩があって一部。僕はそういう構成を心がけるようにしています。

   これも松原さんと長い間一緒に仕事をさせていただいた事で学んだ事です。松原さんにはとても感謝しています。いつも飲んではケンカをしながら舞台の話をしていました。でも、長い時間一緒にいて、松原さんが本当に落ち込んだと時も知っています。

    ちあきなおみさんの旦那さんのお墓参りも一緒に行きましたし、最後に落ち込んで何もできなくて、麻布のタモンというおでん屋で二人でいて、一言も話さ ずに帰ったときに、彼はいろんな人に裏切られてここまできて、そんな自分の人生を書いたのがちあきさんの最後の歌になった「紅い花」なんです。

松原さんは僕を演出家とは認めてくれませんでした。

   そんな人に、どうしたらぼくが演出家として認めてくれるかというところでまた勉強を始めて、いろんなものを観たりして、民音でアフリカとかの演出をやったり、植樹祭もやったり、そういうイベントの演出を松原さんから離れてやった。

仕事で大変だったのは時空工房が倒産した時は借金を背負ってしまった事、僕の責任ではないが僕が招聘したスタッフだったので。

小さい会社には出来るだけ早く払って、大手の日本ステージにはずっと毎月、五万円ずつ払っていたんです、逃げないで誠意を持って返して行きました。

あるとき呼ばれて山下社長から「もう誠意は分かったから、うちの金額の半額でいいから」ということで、経理に相談してお金を借りました。

銀行にお金を借りに行った時は何も担保を持っていなかったんだけど自分のスケジュールを持っていったんです。それを見せて、これしか担保がないって言ったんです。それでいいです。との時は助かりました。 

最近は民音に好きな制作の方が何人かいるので、その人たちと楽しく仕事をさせて頂いています。以前はアフリカ音楽紀行の演出ででザンビア、モロッコ、セネガル、エチオピアとアフリカの国に行きました、それからアイスランドの演出、ギリシャの演出など。

 

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民音アフリカ音楽紀行の演出(セネガル)

 

金一 民音の企画部?

大塚 現在の民音の企画部の方はほんとうに音楽が好きで民音が好きで、そういう人たちと出会えて、いまは民音の制作もやらせてもらっています。久々にツアーに行ったりとか。

   民音で出会った方とは僕と同じような夢があって、そういう人に出会えたのがよかったと思う。お金が財産じゃなくて人が財産。

   これからはたくさんの知り合いがどんどん死んでいってしまうでしょう、仲間が減っていくのは寂しい、増えていけばいいと思うんだけどなかなか難しい。

そして、民音の制作の方とはいつか、中国の貧しい子どもたちのためにコンサートをできるように頑張ろうとか、そういうものを作っていけたらと話しています。

僕の仕事はもう終わりだなと思っていたんだけど、僕はこれからそういう仕事をやっていこうかと思っています。

植樹祭は二回やって、今年でこういう仕事は終わりだなと思った。

残りの時間は少ないからね。あとは筑波大学の子どもたちの三味線の卒業公演、一所懸命学業に演奏に励み僕を待っている子どもたち、そのために、一年に一回の三味線の会をやったり、あとはおじいさんおばあさんの三味線の会。

そして、NPO法人の世界遺産コンサートの理事をやっているので、その中の制作をフォローしながら演出をやり、そういう仲間と演出の仕方を自分なりの形でやっていこうと思っています。

いまは中島みゆきさんが大好きで、出会った事はないが自分で曲順を書き出して構成も考えてみたりしています。チケットが手に入ったら観に行って、自分のものと比べる。それがいま一番の楽しみ(笑)。

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世界遺産コンサート演出(ウズベキスタン)

 

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アンコールワット公演の演出

大塚 カンボジアを訪ねて現地の偉い僧侶にお願いして100名の僧侶と比叡山天台密教のお坊さんと世界の平和のお経を上げてもらったものです。

    この写真には写っていませんが昔戦争の時代 ポルポトに両親を殺された踊りの先生も訪ねてカンボジアの子供たちの伝統舞 踊出てもいました。演出を考える一つの大きなステップになりました。

金一 岡野さんが言うには、舞台監督のなり手がいまは若い女性が多くて、男が全然いないそうだけど、大塚さんの感じではどう思う?

大 塚 男も女も関係なくて、やる気があるかどうかと何をしたいのか。だから、舞台監督はどういうものなのかをきちんと教えてあげて、それで続けていけるかど うかだから。最近は舞台監督とは言葉だけで実力がない方が舞台監督やったりしているけど、良い指導と知識や経験がないと事故が起きる。

   昔のフェスティバルホールで舞台の勉強をさせて頂いたと思っています。

   いつもおっかないお父ちゃんとか鈴木さん、そういう舞台の人たちから学んだんです。感謝しています。

   たとえば、始まる前に照明さんや音響さんの部屋に行って、今日の進行表を持っていって段取りを説明して、よろしくお願いしますと挨拶していたあの時代、あの時のあの経験がずっといまも残っている。

   サンプラザの伊藤さん北さんもそうでした。

   舞台のことも知らないで管理しているホールもあるでしょう。むかしは事務所まで行ってケンカしましたけどね。舞台監督でもそういう勉強が出来ない今は残念に思う。

   僕が金一さんから教わってずっとやってきたこと、それから離れて自分でやってきたこと、ぼくの舞台監督論じゃないけど、そういうものを誰かに伝えたいなという気持ちはありますが僕には弟子がいないのが残念です。

   僕は松原さんの弟子だと松原さんに言ったけど、おまえは弟子じゃないって言われました、でも自分では弟子だと思っています。僕にもそういう思いを持つ弟子がいたら色々教えたいなと思っています。

金一 演出家不在論みたいなものは、ずっとあるにはあるよね。大きいイベントとかは別としても。

岡野 修さんはああ言っていたけど、実はフォークやニューミュージックで時代が変わっていったときに演出家も一緒に変わっていかなかったということもあるんですよ。

金一 そうだね、時代の要求に応えなかったところはあるね。

岡野 だから、歌番組出身の人が出てくるんですよね。必要としないというよりは、そういう流れに沿った人が出てこなかったんでしょうね。 

大塚 お世話になった人で忘れてはならないのは、島田智子さん。

   ぼくは「島田さんがいたから僕の今がある」と思っている。クリエイト初期メンバーの僕達がすごい苦労していて飯が食えないときに、修ちゃんも皆そうだけど、島田さんの家に行ってご飯食べさせてもらいましたよね。

   迷惑なときもあっただろうけど、イヤな顔を一回もされたことがない。いつも笑顔で迎えてくれて、汚い格好して集まった僕達と徹夜麻雀して、朝のあのスープの味はいまでも忘れない。

   このあいだお会いしたときに、そのお礼を言えたのが本当によかった。

あと、できたらみんなでやってほしいことは、クリエイトがここまでやってこれた時間の中で本当に素敵な人たちが亡くなってしまったでしょう。

横山さん、戸田くん、ニーナ、細田くん、林衛さん、半沢さん、それと谷口、井出ちゃん。彼らの慰霊祭みたいなものができるといいなと思っています。

金一 パンチヨは最後の方は布袋さんをやっていたね。真梧が親しかったんだよね。

大塚 真梧と一緒に住んでいて、風呂場で亡くなっていたらしいね。

金一 谷口も若いっていえば若いけど、半沢、ニーナ、細田とかみんな若かったよね。

岡野 井出さんは別として、誰も彼も突然でしたもんね。

大塚 去年の夏、谷口に植樹祭が最後だから一緒にやってくれって頼みにいっていて、それでOKしてもらって、そろそろ会議だからって電話したら谷口が捕まらなくて、そうしたら昨日亡くなったって聞いて、それが心残りですね。

金一 大塚さんはそうすると、とりあえず人様がいらないというまではそういう仕事をやっていく。それで余暇は畑仕事をやって。

大塚 週末は畑仕事です。

金一 週末だけなの?

大塚 そうです。夏の時期は違うけど。

金一 草刈りしないといけないでしょう。足腰が大変でしょう。

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大塚 330坪あるので大変ですよ。草刈り機と耕運機があるけどね。成田のおじいちゃんおばあちゃんと知り合いになって、おじいちゃんが体が悪くなったからやってほしいって頼まれたから。

   それ以外に道の駅で60平米を二つ持っていて、あとうちの近所の市川に市民農園20坪もある。夜明けとともに行って7時間くらいはやってます。スイカからカボチャから、何でも作ってますよ。

金一 植物は結果が出てくるからいいよね。

大塚 畑仕事もそう単純じゃないです。どんどん人は死んでいくけど、作物は毎年できるからって、そういうわけでもない、失敗の年も有り。

   愛情込めた分だけ戻ってくるかというと、ダメなときはダメだしね。無農薬でやっているから、なかなか難しいですよね。

   でも、ストレスはなくなり、新しいアイデアもわいてくる。仕事のささいな問題も自然の中ではとても小さな事。楽しく畑仕事をしています。

 

201510月 クリエイト大阪にて

2016/04/22 21:08:11